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千利休の最後はどうなる?なぜ切腹だった?

 2015/02/16 茶道 歴史
この記事は約 5 分で読めます。 2,422 Views

 

織田信長、豊臣秀吉という2人の天下人に仕えた、

茶道千家流の始祖の千利休。

今回はその生涯についてお話したいと思います。

 

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茶道との出会いから侘び茶の大成まで

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利休(本名は宗易)は堺商人の息子として生まれました。

利休は跡取りとして品位や教養を身につける為18歳の時に武野紹鴎に師事しました。

 

紹鴎の心の師であった村田珠光は、

人間としての成長を茶の湯の目的とし、

茶会の儀式的な形よりも、茶と向き合う者の精神を重視し、

侘び茶の開祖とされました。

 

紹鴎は珠光が説いた「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、

高価な名物茶碗を単に有り難がるのではなく、

日常生活で使っている塩つぼなどの雑器を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努め、

精神的充足を追究し、侘び(枯淡)の心を求めました。

 

利休は紹鴎の精神をさらに進め、

侘びの対象を茶室の構造やお点前の作法など、

茶会全体の様式にまで拡大しました。

 

当時は茶器の大半が中国、朝鮮からの輸入品だったのですが、

利休は樂茶碗など茶道具を日本で創作し、

掛物には禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選びました。

 

「これ以上何も削れない」という極限まで無駄を削って緊張感を生み出し、

村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させたのでした。

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天下一の茶人へ

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自由都市、堺に目をつけた信長は、

堺を直轄地にし、軍資金を差し出させ鉄砲の供給地としました。

新しモノ好きの信長は、堺や京の町人から強制的に茶道具の名品を買い上げ、

文化の面でも天下一を目指しました。

 

また信長は許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、

あらゆる面で茶の湯を利用しました。

そして堺との関係をより堅固にするべく、

政財界の中心にいて茶人でもあった3人、

今井宗久、津田宗及、そして利休を茶頭(茶の湯の師匠のこと)として重用しました。

 

信長の家臣にとって最高の栄誉は、

信長から茶会の許しを得ることとなり茶の湯の指南役の利休は、

必然的に一目置かれるようになりました。

 

信長の後継者となった秀吉は、

信長以上に茶の湯に熱心でした。

秀吉に感化された茶の湯好きの武将はみな利休に弟子入りしたものでした。

 

秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた茶会を利休が取り仕切った結果、

天皇から「利休」の号を賜わったことで、

その名は天下一の茶人として全国に知れ渡ることとなりました。

 

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秀吉との対立から切腹へ

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秀吉は貿易の利益を独占する為に、

堺に対し税を重くするなど様々な圧力を加えましたが、

堺の権益を守ろうとする利休が、

なおも周りから尊敬を集めているのを疎ましく感じていました。

 

また秀吉は利休の娘を側室にと願ったのですが、

利休は「娘のおかげで出世していると思われたくない。」と拒否し、

秀吉はその事を深く恨んでいたという話もあります。

 

利休を重用していた秀吉の弟秀長が病没し最大の後ろ盾をなくした利休は、

まもなく自宅謹慎を命じられました。

そもそも利休が参禅している京都大徳寺の山門の修復が行われた際に

多額の寄付をしたお礼にと、

大徳寺側が、厚意から門の上に木像の利休像を置いたことがキッカケでした。

 

 

大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、

(木造の)利休が上から秀吉を見下ろすとは無礼極まりないというのが謹慎の理由でしたが、

利休が赦しを請い来る事で上下関係をハッキリ分からせようと秀吉がしくんだのです。

 

利休の弟子でもある秀吉の家臣が使者を送り、詫びるようにと利休に助言しましたが、

権力の道具としての茶の湯は、「侘び茶」の開祖・村田珠光、師の武野紹鴎とも、

絶対に否定したはずであり、自分が秀吉に頭を下げるのは先輩茶人だけでなく、

茶の湯そのものも侮辱することになると、利休は詫びませんでした。

 

利休が謝罪に来なかったことで秀吉の怒りが頂点に達し、

利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされ、

その後利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えたことは「切腹せよ」でした。

使者に最後の茶を点てた後、利休は切腹しました。享年69歳でした。

 

その後

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後年、利休の孫の千宗旦が家の再興を許されました。

そして宗旦の次男・宗守が『武者小路千家官休庵』を、

三男・宗佐が『表千家不審庵』を、

四男・宗室が『裏千家今日庵』をそれぞれ起こしました。

 

利休の茶の湯は現代も利休の子孫が家元として守り続け、

今や世界各国の千家の茶室で、多くの人が抹茶を楽しんでいます。

 

千利休が命をかけて、その本質を守り抜いた茶道。

伝統を守り、しかも新しいことも取り入れることを忘れずに、

次の世代に伝えていきたいですね。

 

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