お稽古でお茶杓の銘に困った時、とりあえず「好日」
と名づけたりします。
「日々是好日」は、「ひびこれこうじつ」
「にちにちこれこうにち」などと読みますが、いったい
どういう意味なのでしょうか。
禅語って何?
禅語は複数の中国仏教の書物の中の禅僧の語録、または
中国の皇帝の逸話などから取った言葉です。
碧巌録、虚堂録、臨済録、無門関、漢書、その他様々な
文献の中から薀蓄のある禅語が取り出されています。
例えば、碧巌録からは「南北東西活路通」、虚堂録からは
「看々盡臘月」、無門関からは「主人公」、漢書からは
「山呼万歳声」が挙げられます。
禅語を掛軸にしたのはいつごろから?
室町時代には、茶席にかける軸は唐絵、仏絵であり、
人物、花鳥、山水などといったものでした。
それが、現在のような形になったのは、村田珠光以降
だといわれています。
珠光は室町時代の茶人で、利休の師匠である武野紹鴎の
先生のそのまた上の先生に当たり、大徳寺の一休禅師に
師事し、悟りを開き印可の証を授かりました。
その時一休禅師からいただいた、宋の禅僧である圜悟禅師の
墨蹟を茶席の床に掛けたのが始まりといいます。
日々是好日はどこから来たか
それでは、よく耳にするなじみの深い「日々是好日」
はどこから来ているのでしょうか。
この言葉は、唐の末期から五大十国の時代に生きた、雲門文偃
(うんもんぶんえん)禅師の言葉(雲門広録)から来ています。
雲門禅師の生きた唐の時代はまさに禅宗が盛んになり、様々な
唐の文化が華開いた時期でありましたが、その後の五大十国時代は、
宋の時代までの混乱の時代でもありました。
雲門禅師は大変聡明な人で、一度経典を読めば二度は読まずに
すんだと言います。
その雲門禅師が、ある日弟子たちとの問答で「十五日前のことは
あなたたちに問いません。では十五日後はどうなっているか一言
で答えなさい」
と尋ねられたとき、弟子の誰も答えられなかったので、雲門禅師が
自らこう答えられました。
「日々是好日」
日々是好日の意味を考える
生きていると毎日色々な気持ちの変化があります。
電車が遅れて会社に遅刻して最悪、会社で嫌なことを言われて
頭に来た、今日食べたランチでデザートをおまけしてくれて
ラッキーなど、ジェットコースターのように感情が動きます。
けれども、電車がもし遅れなかったらどこかで乱暴な人とぶつ
かってもっと嫌な思いをしていたかもしれないし、会社で嫌な
ことを言われても、自分も誰かに同じようなことをしていたと
思い当たり、人にきつい物言いをするのをやめようと思うかも
しれません。
目の前で起こったことだけに憤慨していたら、常に感情に振り
回されることになりますが、今自分に起こっていることが、
今の自分にとって最善のことであると考えれば、今日も明日も、
一年後の今日も、十五年後の今日も変わらず最善の日であるの
だと思ます。
まとめ
禅語の意味にはどう解釈していいのかわからないものがあります。
本やネットで調べてみても、微妙に解釈が違っていたりして正解
があるようにも無いようにも見えます。
受け取る人の成熟度や生き方、精神性によって様々な解釈があり、
それでいいのではないかと思っています。
今日捉えた禅語の意味と一年後同じ禅語を見たときでは、心に響く
ものが違うかもしれませんが、それがその人の心の成長の証であるのだと思います。
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