茶道では、思いの他様々な金属製品を使います。
建水、水次やかん、花入といったものから、煙草盆にのせるキセルや
炭を扱う火箸まで広がりがあります。
そのような、金属製品を作成する千家十職の
中川家の当主の名前が浄益です。
初代は武具を制作していた中川家
中川家は、元々は越後国で戦国武将の甲冑・鎧を作っていました。
茶道具を初めて手掛けたのが、初代の中川紹益(通称与十郎)です。
与十郎は、上洛して火箸や環を制作していたところで利休と知り合い、
その金工の技が認められて、やかんの制作を依頼されました。
このやかんは、天正 15年(1587 )に秀吉主催の北野大茶会で使用され、
以後、「利休やかん」と呼ばれて表千家に伝わり、
その形が水次やかんの基本になっています。
二代目から千家の出入り職人に
2代浄益は、寛永年間に千家の出入りの職人となりました。
当時は、豪商な佐野(灰屋)紹益が活躍していた時代でした。
紹益は、茶の湯、連歌など諸道に精通した文人としても知られ、
また、名妓吉野太夫を妻としたことでも有名な人物です。
表千家4代江岑宗左より、紹益と名前が紛らわしいことから
浄益に改めるよう申しつけがあり、これ以降は代々「浄益」の
名を継いでいます。
3代は、技術的に困難であった銅・錫・鉛の 合金である
砂張の製法を発見し、製造に成功しました。
歴代の中でも鋳物の名人として知られています。
5代の晩年には、天明の大火に遭い、過去帳 1冊以外の
すべての家伝・家財を消失してしまいます。
出入り禁止になった 6代目
6代は、天明の大火の3 年後に家を継ぎます。
若い頃、表千家 8代啐啄斎の機嫌を損ない、
表千家の出入りを禁止された時期があったようです。
7代は、砂張の打物の名人で、中国生産の金属製品を
上回る出来栄えだったと言われています。
また、天明の大火で代々伝わる古文書を失った為、
新たに家系図を綴り、それが現在まで伝わっています。
7代は技術にも優れ、家を大切にしたことから、
中川家中興の祖と言われています。
明治以降、近代化に正面から取り組んだ中川家
8代目は、7 代目の婿養子です。
明治維新による文明開化で伝統工芸品の立場が揺らぐ中、
先を見通して金工の近代化に努めた人でした。
明治初年の京都の大博覧会の開催に尽力し、さらには自ら
「浄益社」を設立して、海外への日本の美術品の紹介を行います。
残念ながら浄益社は発展せずに失脚し、失意の中、 48歳で没しました。
9代が後を継ぎますが、茶道衰退期で家業の建て直しがうまくいかず、
酒に浸かることもあったようです。
10代になって、第一次世界大戦の好況を捉えて、先代からの負債を完済し、
中川家再建の基盤を作りました。
11代は、1940 年、 20歳の時に襲名しました。
当時は、戦時体制下で金属材料は優先的に軍需用に振り向けられ、
茶道具生産の為の材料はほとんど手に入らずに、
たいへんな苦労をしたそうです。
戦後は、謙虚な姿勢で制作を続行し、花入れ、水指から、
茶席の釘類や襖の引手まで数多く手がけました。
残念ながら、 2008年に11 代が 87歳で死去し、
現在、当主は空席となっています。
これからの金もの師像
古代から行われてきた金属工芸ですが、科学の発展により、
加工の技術は大きく変化してきています。
作品の一つ一つの工程は複雑で多岐にわたるため、
今では、専門職による分業体制で生産されています。
これからの金物師は、受け継ぐべき伝統と取り入れる新しい技術を
判断しながら、プロデューサーとして、全体の生産工程を統率できる
人物が求められています。
中川家でも、そのような人柄の 12代目の登場が待ち受けられているのでしょう。
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