利休百首に「釜一つあれば茶の湯のなるものを・・」
と歌われるように、釜は茶の湯に欠かせないものです。
千家十職で、その大切な釜を制作している
釜師の家の当主の名が大西清右衛門です。
歴代の清右衛門はどのような釜を制作したのでしょう。
大西清右衛門の歴史
清右衛門の名前は、4代目が最初に名乗り、その後、
6代目以降は9代目を除いて代々継いでおり、
当代は、16代の清右衛門です。
隠居後は、「浄」の字のついた隠居名を名乗っています。
初代の浄林は、江戸時代初期に
京都三条の釜座に住んで、
大西家を興しましたが、当時、
釜座では多くの釜師が活躍していました。
代々の大西家の作風を語る前に、少し遠回りして、
大西家が誕生する前の時代から振り返ってみましょう。
室町時代の釜の産地は芦屋・天明
室町時代から桃山時代に隆盛を極めたのは、
芦屋釜と天明釜でした。
芦屋釜は筑前国(福岡県)の芦屋で鋳造された釜で、
室町時代に守護大名の大内氏が保護し発展しました。
なめらかな肌に典雅な地文を施した真形の優美な釜が多く、
京都をはじめ各地で珍重されました。
大内氏が滅亡するとともに、芦屋釜も衰退し、
江戸時代初期にはほぼ消滅してしまいました。
天明釜は、下野国(栃木県)佐野庄天明で作られました。
荒々しい肌で素朴な形のものが多く、
発展した三条釜座に初代が移り住む
京都でも釜は生産されており、京釜と呼ばれていました。
京都では、三条の釜座以外では鋳物をすることは許されておらず、
三条釜座に釜師が集中して住んで生産していました。
侘茶が発展すると、茶人たちは好みの釜を
直接釜師に注文するようになります。
その結果、地方の芦屋や天明と比較して
地理的に便利な京都の釜師への発注が多くなり、
三条釜座は発展し、芦屋・天明は衰退していくことになりました。
そして、三条釜座には、辻与次郎、西村道仁、
名越浄味などの名工が生まれ、大いに賑わいます。
江戸時代初期、その釜座に大西家の初代、
浄林が移り住みます。
大西家は、武家茶道の興隆の時代に乗り、
武家好みの釜を作ることで大きく発展していきました。
大西家歴代が作った釜
初代浄林は、山城の国に生まれました。
30歳ごろ京都の釜座に移り住み、釜の生産を始めます。
京都の他の工房は草庵風の釜を制作したのに対し、
浄林は、武家の好みに適う広間向きの作風を確立しました。
2代浄清は、浄林の弟で、
大西家歴代中一番の名人として知られています。
古田織部、織田有楽の釜師をつとめ、
小堀遠州の好みの釜も制作しました。
形は凝ったものが多く、
地文のある装飾的な作品を得意としました。
狩野探幽の下絵を用いた釜も残っています。
6代浄元から、千家出入りの釜師となります。
この頃から、草庵風の侘茶に適した作品を作るようになりました。
7代浄玄は、美しく整った肌を創り出し、
気品に満ちた釜をつくりました。
2代に続く名手と謳われ、
大西家中興の祖と言われています。
9代浄元は、7代浄玄の弟子でしたが、
養子に入り、大西家を継ぎました。
丁寧な作風で、美しい地肌の上品な釜を作りました。
10代浄雪は、装飾した地文と地肌が調和した美しい釜を作りました。
また、名物釜を調査し、『名物釜由緒聞伝控』『釜の図』
などを編纂した学者としても知られています。
11代浄寿は、その性格を表して、豪放華麗な力強い作風でした。
13代浄長は、明治期、茶道が困窮した時代に復興に努め、
日本画家橋本関雪の絵を装飾に用いた釜も作りました。
当代の清右衛門は意欲的
当代、16代清右衛門は、芦屋釜を研究し、
秘法とされた技法の再現に成功しています。
また、平成10年には、大西家歴代の釜を展示し、
茶の湯釜の研究発表の場となることを目指した
「大西清右衛門美術館」を開きました。
釜を手に触れて楽しめる茶会や、講演など、
当代は、釜の制作に留まらず、
意欲的に普及活動にも努めています。
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