飛来一閑は、
千家十色の一閑張細工師の当主が
代々襲名している名前です。
初代の飛来一閑とは、どんな人だったのか。
その後、どのような歴史を辿って現在に至るのか。
素朴で侘びた雰囲気を楽しむ一閑張
「一閑張」とは、漆工芸の技法で、
紙を貼り重ねて器の形を作り、
そこに漆を塗り重ねる点に特長があります。
竹や木で組んだ骨組みに和紙を何度も張り重ねる方法と、
木や粘土の型に和紙を張り重ねた後に
剥がして形を整える方法があります。
形が完成したら、色や絵をつけて意匠を整えるとともに、
防水加工や補強にする為に漆を重ねて塗ります。
紙を貼り重ねて形を作るため、
比較的自由に形状を作れるので、
茶道具では、棗、菓子皿、食籠、香合など、
大小に渡り様々なものが制作されます。
下地が和紙のため、独特の風合いと特有の光沢があり、
軽くて丈夫なため、一閑張は、茶人に愛玩されてきました。
初代飛来一閑と一閑張の誕生
初代一閑は、明の時代に、
現在の浙江省杭州にある飛来峰の
山裾に生まれ、禅宗に帰依していたと伝えられています。
明朝とは民族が異なる清朝の侵攻が中国南部まで及び、
身の危険を感じた一閑は、
大徳寺の清巌宗渭和尚を頼り、
海を渡って日本へ亡命してきました。
その際、地位身分を隠す為に、
出身地の飛来峰に因んで、
「飛来」の姓を名乗るようになりました。
一閑は、清巌和尚の手引きにより
千宗旦に紹介され、茶の湯に親しむようになります。
一閑は、手すさびに紙を貼りあわせたものに
漆を塗った茶道具を自らつくり、
清貧の茶を楽しみました。
この素人が作成した素朴な茶道具が、
侘茶を好んだ宗旦の目に留まります。
一閑は宗旦の指導を受けて茶器、
茶碗などの茶道具の制作を行った結果、
現在まで続く「一閑張細工」が誕生したのでした。
以降の飛来家
初代一閑が「一閑張」を誕生させて以来、
飛来家では、代々、その素朴な精神を継承しながら
一閑張の制作に励んできました。
2代が母型の里に引き取られた後、
3代が上京し、一閑張を家業として始めます。
4代は、初代の縁で表千家に出入りするようになり、
6代覚々斎の好み物を作りました。
しかし、6代から8代までは早世する当主が相次ぎ、
家業の維持すら困難な苦しい時期が続きました。
9代は、家業の再興に尽力し軌道に乗りかけますが、
天明の大火に遭遇し代々の作品や資料類を失い、
失意の内に亡くなってしまいます。
10代は、復興に取り組み、初代一閑の作風を慕い、
入念に作品作りを行いました。
11代は先祖伝来の作風を引き継ぎながら
独自の技術も編み出し、
初代以来の「名人」とまで謳われました。
飛来家の中興の人と呼ばれています。
夫婦二人三脚で制作する現代の飛来家
昭和の大戦後、また、飛来家に苦難の時代が訪れます。
14代は後継者となるべく育てた2人の息子を
太平洋戦争の際に戦死で失ってしまいます。
後に婿養子として迎えた15代は
襲名4年後に急逝してしまいます。
その娘である当代一閑は、父親を亡くした時、
まだ高校生でしたが、一閑張の技術を継承するべく
修行に励み、平成10年に16代一閑を襲名し、
12代の中村宗哲に続く、
千家十職で二人目の公式な女性当主となりました。
現在は、夫と二人三脚で、
紙を貼り漆を塗る作業を行い、
家業を支えています。
初代の日本への亡命から始まり、
相次ぐ当主の早世、火災、後継者の戦死といった
苦難の歴史を乗り越えてきた飛来家ですが、
その制作する一閑張は、和紙の柔らかさと強さが活きた、
優しく穏やかな作風が今でも茶人に好まれているのです。
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