利休の時代から、床の間に掛ける軸は、茶道具の中で
最も重要に考えられています。
特に家元や高僧の手による字・画は珍重されますが、
家元の揮毫を表装し、掛軸に仕立てる表具師として
千家十職に名を連ねるのが奥村吉兵衛です。
表具師とはどのような仕事なのか、また、歴代の奥村吉兵衛は
どのような人なのか、まとめてみました。
表具師の仕事の範囲
奥村家では、掛軸の表装のほか、風呂先屏風、釜紙敷、莨入など
紙を使う道具全般を扱っています。
家元の茶室のふすまや障子、腰張なども扱い、障子も
定期的に張り替えているそうです。
黒子に徹するのが表具師
表具とは、書や画などを、保存と鑑賞のために、裂地を使って
掛軸や屏風に仕立てる仕事です。
掛軸の中心をなすのが、家元の揮毫、高僧の墨跡、絵画などの
本紙と言われる部分です。
表具師は、その本紙を引き立てるように、取りあわせる裂地や紙を選びます。
湿気で紙は伸び、絹糸でできた裂は縮むので、二つがしっくりするよう、
紙に手をかけて、糊を選びます。
それぞれの紙・裂に裏打ちし、一文字、中廻し、上下と呼ばれる部分
を継ぎ足して、総裏打ちをします。
その後、寒暖の差や湿度の変化に慣れさせるため数か月から
1年間寝かせます。
最後に軸木や風袋をつけて仕上げます。
これだけ手をかける表具ですが、主役はあくまで本紙とそれを
書いた人です。
他の道具と異なり、表具師の名前は「··作」といった形では
箱書きなどに残りません。
表具師とは黒子に徹する仕事なのです。
戦国の世で活躍した奥村家の先祖
今は表具師として裏方に徹する奥村家ですが、先祖は戦国時代に
華々しく活躍した武士でした。
奥村家は、佐々木氏の末裔とされ、近江国の「北の谷の庄」の郷士でした。
奥村三郎定道の代、姉川の戦いで主家浅井氏が滅亡して浪人となります。
定道の子の定次の長男、源子郎は前田利家に仕官し関ヶ原の闘いでも
活躍したそうです。
次男・吉右衛門清定は武士を捨てて、母方の家業を継いで商人となり
京都で表具屋となりました。
この清定が奥村家の初代とされます。
千家に出入りし、紀州徳川家の御用達に
2代吉兵衛は表千家と関係ができ、家元の好みの表具を
申し受けるようになります。
さらに、表千家 6代覚々斎の取りなしにより紀州徳川家の表具の御用を
つとめるようになりました。
2代の後、数代に渡り、跡取りの男子が早世し、
所縁のある北近江より代々婿養子を迎える事態となります。
5代の時に、天明の大火に遭遇し、家伝などの一切資料を失って
しまいます。
その後を継いだ 6代は調査を重ねて先代が遺した控えなどを整理し、
焼失した家系図を整備しました。
また、自ら 「千家御好表具并諸色寸法控」乾坤 2冊に表具の寸法や
裂地についての細かい記録や家元行事などの記録をまとめました。
代々研究熱心な家柄
江戸末期に活躍した 8代は、歴代の中でも最も技量に
優れたと言われています。
また、学問にも熱心で、彦根藩の家老で儒家の岡本黄石に師事して
儒学を学び、詩歌や書にも優れています。
奥村家も、他の千家十職と同様、明治の茶道衰退期を乗り越えて
現代に至っています。
当代は 12代で、伝統技法を受け継ぐとともに、
糊の用法など新しい技術の探求を続けています。
三千家をつなぐ奥村家
土佐光孚 の画に、三千家がそれぞれ賛を寄せた有名な三幅対が
伝来しています。
これは、 土佐光孚 が先に画を描き、 5代吉兵衛が表千家・了々斎、
裏千家・認得斎に賛を依頼して表装を行い、 1821年に二幅は完成しました。
その後、 1882年に9 代が武者小路千家・一指斎の賛を得て、
60年以上かけて三幅対が完成しました。
時間をかけても、三千家の合作を統一した表具で飾れるのは、
代々裏方に徹してきた奥村家ならではといえるでしょう。
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