駒沢利斎は千家十職の一つで、指物師の駒沢家で代々継承する名跡です。
残念ながら、利斎の名前は30年あまり前から空席となっています。
なぜ、そのような状態なのでしょうか?
指物師駒沢家の歴史を辿ってみましょう。
指物師駒澤家の始まり
駒沢家は初代の宗源が延宝年間( 1673~81 )に指物業を始めたのが
はじまりと言われています。
指物とは、釘を用いずに、板材を部材に差し込んで、
木工品を組み立てる仕事です。
茶道具としては、棚、長板、茶箱、菓子器、煙草盆、木地水指、
風呂先、炉縁など、多種多用なものが作られます。
千家と駒沢家の関わり
千家に関わりはじめたのは 2代宗慶、3 代長慶の頃からで、
千宗旦の注文により指物を製作したと言われていますが
詳しいことはわかっていません。
4代利斎からは千家との関係が記録にはっきりと残されてきます。
4代は、指物の技が非常に優れていたため、表千家 6代の覚々斎に
取り立てられて、千家出入りの指物師として指名されました。
また、「利斎」の名を与えられ、以後、代々の駒沢家当主は
「利斎」を名乗るようになりました。
多方面で活躍した7代
江戸時代後期に活躍した 7代利斎は、6代の実子が若くして
亡くなったので、6代の娘の婿養子に入った人です。
7代は表千家 8代啐啄斎、9 代了々斎、 10代吸江斎の3 代に出仕しました。
了々斎に特に重用され、今も駒澤家の内玄関に掛かる
「御茶器 さしもの師 駒澤利斎」ののれんは、
了々斎の筆により賜ったものです。
7代は、指物だけではなく「春斎」の号を以て塗物も手掛け、
8代黒田正玄や11代飛来一閑らと合作を作るるなど
他の分野でも意欲的に製作を行いました。
7代は長寿にも恵まれました。
1839年に大徳寺で行われた施餓鬼の記録を観ると、職家の最長老として
筆頭に「利斎」の名が挙げられており、駒澤家が隆盛だったことが伺えます。
7代は、多方面に活躍し、「駒沢家中興の祖」といわれています。
その後は早世する当主が相次ぐ
江戸末期、 8代から10 代の利斎は早世が続きます。
11代は、歴代中もっとも茶の湯に親しみ交際の広い人で、
画家の富岡鉄斎との親交が知られています。
13代は、11 代の次男ですが、 兄の12代が21 歳で没した為、
20歳の時、駒澤家を継ぎます。
13代の死後、妻であった浪江が、娘の千代子を後継者とするべく
14代として家業を継承します。
しかし、その千代子は 20歳で早世し、14代も 1977年に他界してしまいました。
以後現在に至るまで名跡は空席となっていますが、
14代のおいの息子が修業に励み、 15代の継承を目指していると
言われています。
駒澤家が伝えてきたもの
指物師が制作する木製の茶道具は棚、茶箱と種類は多様ですが、
すべては利休形が基本になっています。
基本となる利休形と歴代の家元の好みの道具の寸法、材質、デザインを記した
寸法帳と、その寸法を木に記した物指「ほんぎ」は、駒澤家に受け継がれて、
大切に使われてきました。
これだけの伝承品がありながら、 30年以上当主の座が公式には
空席になっているということは、十職の当主を受け継ぐことが、
たいへん厳しいものだということを表しているでしょう。
職家の当主として技術を磨き、
伝統ある家の当主として代々伝承されてきた製法を守り、
家の記録を管理しなくてはなりません。
さらには、十職として茶道を理解し、他の十職当主ともコミュニケーションをとり、
千家の宗匠の好みも理解することも求められます。
「腕はいいけど無口」という職人気質では不十分で、非常に多面的な
能力を発揮しなくてはならないのです。
素晴らしい技術と伝統を後世に伝えていくためにも、
是非、早々に新たな当主が誕生することを期待したいですね。
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