南北朝時代から現代に演じ継がれ、
世界で最も長い演劇生命と伝統をもつ能。
今から約650年ほど前の室町時代に
創始者である観阿弥、
大成者である世阿弥が完成させた能は、
歌や舞で物語を演じるため、
いわば日本版のミュージカルともいえます。
今回は、今国際的にも注目されている能が
どのようにできて、
どのように現在の形になったか、
能の起源や歴史、年表などを、
ご紹介いたします。
能の起源は?簡単に年表で見てみましょう!
出展:http://www.tatsushige3.com/index.html
現在、
能は国際的にも高い知名度を誇っており、
日本の伝統芸能として
ユネスコ世界無形文化遺産に
初めて登録されました。
そんな能の歴史を、
年表を使ってご紹介します。
能楽史年表
701 能の源流といわれる散楽戸の設置
782 民間猿楽の盛行に押され、散楽戸が廃止
863 神泉苑御霊会に猿楽奉仕 猿楽祭礼参仕の初見
1025 法成寺修正会に翁猿楽成立と深くかかわる呪師が参加
1333 観阿弥 大和山田猿楽の三男として誕生
1363? 世阿弥誕生
1374 観阿弥が12歳の世阿弥を伴い、今熊野で猿楽を興行。この時足利義満が初めて猿楽を見物し、以後猿楽の地位が飛躍的に向上する。
1374 観阿弥 没
1400 世阿弥『花伝』著述
1434 世阿弥 佐渡に配流
1443? 世阿弥 没
1467 応仁の乱勃発 その後猿楽貧窮
1568 織田信長 能楽師に領地安堵の朱印状交付
1593 豊臣秀吉、肥前名護屋に金春安照はじめ四座の役者や手猿楽(素人役者)を呼び寄せて、演能させる。秀吉の後援で当時は金春流が隆盛。秀吉より、この年から四座の役者に知行や扶持米が与えられる。
1596 下間少進『童舞抄』『舞台之図』『叢伝抄』著述
1597 秀吉、諸大名に命じ、大和四座役者へ配当米分配。近江猿楽や丹波猿楽などの役者も四座の傘下へ入る能会の大再編。
1589 秀吉没 翌年に創建された豊国神社の遷宮式で四座立合能
1600 日本初の刊行謡本刊行
1603 徳川家康将軍に任命 四座参仕の祝賀能
1604 秀吉の七回忌の豊国神社臨時祭に、四座立合「翁」や新作能の演能。
1642 大蔵虎明『狂言之本』執録 狂言の固定顕在化
1660 大蔵虎明『間之本』執録
1868 徳川幕府崩壊 五座の能役者は扶持を離れる。
1870 薪猿楽、若宮祭は金春流だけで執行 翌年より中絶
1878 明治天皇、青山大宮御所に能舞台を造営。翌年観能した岩倉具視に能の保存を勧告される。
1880 薪猿楽、金春流や大蔵流茂山家の出演により「薪能」の名で再興
1935 海外紹介映画「葵上」制作
1941 世阿弥自筆の伝書、書状を含む膨大な金春家旧伝文書が、生駒宝山寺で発見される。
1944 『能楽』創刊
1945 空襲により都市の能楽堂がほぼ焼失 現(社)能楽協会が創設
1950 能楽ルネッサンスの会結成
1954 ベニス国際演劇祭に能 参加
1955 人間国宝に能楽師が選出 世阿弥の伝書『拾玉得花』宗家書庫より発見
1964 禅竹『明宿集』発見
1983 国立能楽堂建設
2008 ユネスコ無形文化遺産登録(宣言は2001年)
能と狂言の歴史はどう違うの?
出展:http://www.k-bunka.jp/index.html
狂言は能と同じく
約650年前の室町時代に誕生した芸能です。
能も狂言も元は
「散楽」と呼ばれた芸能で、
そこに土着の芸能が融合し、
のちに「猿楽」と呼ばれるようになり、
歌や舞を中心とした悲劇的な「能」と、
セリフを中心とした喜劇の「狂言」に
分かれていきました。
ただ、歴史的に見ると、
狂言は長らく能より低い地位に
置かれていたようです。
能は織田信長や豊臣秀吉などの
将軍たちに愛され、
江戸時代も
能楽者は大名から配当米を受けるなど
格段の待遇を受けていました。
明治維新後は、岩倉具視らに、
日本を代表する舞台芸術として重宝され、
能は古典芸能として
盤石の地位を固めていきました。
一方の狂言は、
能の付属品のように扱われ、
能ほどの愛顧を
うけることはできませんでした。
そうした差がなくなり、
狂言が劇として
正当に認められるようになったのは、
戦後以降のことといわれています。
能の流派はどのように生まれた?
出展:http://blog.goo.ne.jp/usuaomidori
もともとは多くの流派があったものの、
現在、能のシテ方の流派は、
観世流、宝生流、金春流、金剛流、喜多流
の5流派となっています。
猿楽能を源流とする大和猿楽のうち、
代表的であった四座が、
現在の観世流、宝生流、金春流、金剛流の
母体とされています。
また、喜多流は江戸初期に創立されました。
それぞれの流派ごとの起源が
以下になります。
・観世流
結崎(ゆうざき)座が流儀の源。
その結崎座に所属し、
大夫を勤めていた観阿弥清次(観阿弥)が
観世流の流祖です。
現在は能楽師約900人を擁する
国内最大の流派となっています。
・宝生流
外山(とび)座が流儀の源。
観阿弥の子で世阿弥の弟である、
蓮阿弥が宝生の流祖です。
観世家と室町時代から縁戚関係にあり、
両流派は上掛りと呼ばれています。
・金春流
大和猿楽の四座のうち、
最も歴史が古い一座、
円満井(えんまい)座が流儀の源。
猿楽の祖といわれる
秦河勝(はだのこうかつ)の末裔。
「金春」の名は、
金春禅竹の祖父・金春権守の名に
由来しています。
・金剛流
法隆寺所属の猿楽座、
坂戸(さかと)座が流儀の源。
「金剛」の名は、
金春権守と同時期に活躍した
金剛権守の名に
由来しているといわれています。
・喜多流
堺の眼医者の子であった
喜多(旧姓は北)七太夫長能が流祖です。
秀吉の愛顧を受け、
金春禅曲の娘を娶ってその流れを汲み、
のちに喜多流の創設を認められました。
またこの他にワキ方に、
高安流、福王流、下掛宝生流、
狂言方に大蔵流、和泉流が現存しています。
能はやっぱり京都?能の島、佐渡って?
出展:http://www.madio.jp/index.html
観阿弥・世阿弥親子が
京都の今熊野で上演した猿楽が、
足利義満に認められ、
その後長らく
幕府の愛顧を受けることになりました。
この頃を「能楽元年」とよび、
現代に伝わる能の発祥の時期ともされています。
能のベースともなる
「源氏物語」や「平家物語」
「伊勢物語」などの物語の多くが
都を舞台にしたことや、
能を完成させた観阿弥・世阿弥親子の墓も、
京都にあることから、
京都は能と深いつながりがあると
いえるでしょう。
また、「能の島」とも呼ばれる
佐渡には、
明治の頃までは200以上、
現在でも
国内の三分の一ともいわれる
30以上の能舞台が現存しています。
能を大成させた世阿弥でしたが、
足利義満が世を去り、
音阿弥を贔屓にしていた
足利義教の治世になると、
世阿弥は将軍に
迫害を受けるようになりました。
さらに70歳を過ぎた世阿弥は
佐渡島へ流刑されてしまいます。
このとき世阿弥は
佐渡に数々の能面を持ち込み、
多くの能舞台を
建立したといわれています。
こののち能楽師の息子であった
佐渡の初代奉行・大久保石見守長安が
多くの能役者を同伴し赴任しました。
そして佐渡各地の神社に能を奉納し、
庶民にも広く能を開放したことで、
現在でも佐渡では多くの市民に
能は愛されているようです。
まとめ
私は現在京都市内に住んでいますが、
能の物語に登場する場所は
すぐにでも行ける場所がとても多いです。
それどころか
今住んでいる場所が舞台の演目もあります。
また、まったく能とは関係のないところで
知り合いになった方が、
能楽師だったり、狂言師だったり、
能装束をつくる方だったり、
能面彫りを趣味としていたり…
なんてことも。
京都が能と深いつながりがあることを、
日々感じながら暮らす毎日です。